ネッド・グッドウィン MW のスペシャル・コラム 番外編 〜 ジャンシスロビンソン.コム掲載記事の“ネッド公認翻訳文”〜
04/09
ネッド・グッドウィン MW が日本のワイン文化・業界について書いた記事が波紋を呼んでいる中、ネッドから「これを“公認の翻訳文”として掲載してほしい」という連絡がきました。原文、あるいは今までの日本語訳を読まれた方にも、もう一度読んでいただきたい素晴らしい翻訳で、彼が何を意図してこの記事を書いたのか、より理解しやすい内容です。
ネッドが見たことが日本のワイン文化・業界のすべてだとは思いませんが、様々なことを考えるよいきっかけになることを願って、ここに掲載させていただきます。(by Yasuko Nagoshi)
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日本には11年程住んだことになる。多くの面で、いい国だった。でなければ、これほど長くいられたはずがない。15歳の時に交換留学生としてのどかな福井県で過ごしたかけがえのない時間が、私がこの、少なくとも多くの非日本人にとって、地球上で最も隔絶された特異な国で生活する下地となった。だが、荷物をまとめる時が来た。少なくとも、しばらくのあいだは。
福島の原発事故とその余波で、同僚や友達は日本を出て行った。個人的には、日本がまた右傾化していることもさらに都合が悪い。安倍とその一族の不快な臭気が空に漂う。国家斉唱を拒否して教師がクビになるのは、軍国主義の名残だ。秘密保護法が公布されるなど、日本をまた「誇れる国」にする構造的な取り組みが華々しいが、「誇れる国」とは一体何なのか。官僚制度の巣窟については触れない教科書、歴史を消し去るためのシュレッダーが、あても無い未来へと続く道の両脇を固めている。ワインそのものとは無関係であるものの、その楽しみ、そして家族と私たちの生活には、確実に影響を及ぼしているのだ。
日本にいるあいだ、ワインバイヤー、教育者として、プライベートコレクター、ロックスター、大使館や航空会社の顧問をするという機会に恵まれてきた。しかし、2010年に日本で唯一のマスター・オブ・ワインになってから、仕事の上での本当の機会と呼べるものは海外から入るようになった。これがきっかけで、ワイン界の多くの側面が日本では日の目をみていないか、あるいは単純に日本を素通りしているという事実に気がついた。もちろん、日本は独自のトレンドで栄え、それは日本では「ユニーク」と受け止められているが、この言葉も安倍の下で再び牽引力を得たものだ。文化的に均質になっていく国際的潮流から身を守ろうとする試みである一方で、過去に蓋をして今を受け入れることを促しているに他ならない。日本がユニークなテイストを持っているのであれば、歴史や現在の捉え方も、もちろんユニークで当然だろう。
根拠のない「ユニークさ」を信じることは危険だ。これこそが視野の狭さとエリート主義の核心である。ワイン業界にいる多くの日本人のサービスは素晴らしく、ディテールにこだわり、コツコツと知識を蓄積することに喜びを見出している点などは、見事に、そして典型的に日本人である。しかし、細部に集中しすぎると、ワインの最も重要な役割、少なくとも私にとっては最も大切な、楽しさをもたらすという役割が見えにくくなる。
日本人のソムリエはワインのホイルを撚(よ)って精巧な置物にしてみせたり、テロワールに熱狂したりする。それなのに、ワインがおいしい飲み物、会話の潤滑油、思い出の具現としてもたらしうる喜びを、好奇心ある消費者層に届けることには失敗しているのである。ワインの消費量は大したことはないが、むしろ「自分」を押し上げるツールとして用いられている。ワインは、着飾ることを正統化する――バッジを付けてみたり、かび臭いスーツや凝った装飾品を身につけてみたり。男も女も、ペットの犬でさえ、この国ではいわゆるソムリエなのだが、資格をもっている人で実際にワインの仕事をしている人は少ない。資格が実力や本当の才能よりも賞賛される文化において、その称号は履歴書のお飾りに過ぎないのだ。もっと言えば、話し合いやディベートよりも面子や調和が重んじられる国では、批評家も存在しない。
”クラシック”や”ナチュラル”といった漠然とした形容詞がワイン業界では出回っているが、デフレ、不景気、未知のものへの恐怖が何十年にもわたって続いた後で、実際にうけているワインはそうした言葉とはかけ離れたものばかり。そういう社会背景からくる物価の下落が、本当にコストパフォーマンスの高い地域のワインを客に提案する力がレストラン、酒販店、両方の店員にないこと、更には大幅なディスカウントと相まって、リスク・フリーと思われている地域の安価でお粗末なワインの売上につながっている。
例えば安いボルドーなんかは、おそらくこの世で最もつまらないワインだろうに、南ローヌやスペイン、また、同じ価格でもっと楽しめ、新しい消費者を呼び込み得る他の幾多のワインよりも売れている。そして、ひとにぎりの異端児たちを除いて、ワイン・シーンも瀕死状態だ。消費もひとりあたり2リットルで低迷する状況が、30年も続いている。
喜びをもたらすというワインの可能性は、日本ではそれに携わる人によって否定されている。しかし、グラスワインを楽しんでいる客に2杯目を勧めなかったり、あるいはおかわりを注がなかったりするのは、日本”独特”なのだと言われた。同様に、一本目が空になったあとで別の1本をグループ客に勧めたり、客の選んだボトルよりもほんの少しだけ高いものの、ずっと質の良いワインを提案しないのも、同じ文化的因習のせいというわけだ。
これは、日本では人気のあるテクノロジーやアイデアが他の国では消えていったり、受け入れらなかったりするのと似ている。この隔絶は、日本では「ガラパゴス現象」として知られている。深く見てみると、男女の給料と社会的役割の大きな不均衡(消費を牽引し、より質の高い生活を追求しているのは女性なのにもかかわらず)、海外のカードを受け付けないATM、時代に逆行するソムリエ団体、情報量は膨大なのに、使い方の説明のないウェブサイトなど、同義語は多い。JALのHPが好例だが、例は枚挙にいとまがない。
これは、社会学的かつ政治的に元のたどれる現象なのかもしれない。しかし、ワインに関係あろうとなかろうと、有害であることに変わりはない。日本が世界の趨勢から外れていること、時代遅れの「うちはうち、よそはよそ」という考え方からくる無知に染まった狭量さに、それは現れている。多くの日本人が、貧しくも無教育な訳でもないのだから、ますます苛立たしい。しかしなにより、このあくなき孤立は恐れに端を発している。未知のもの、外からやってきた考えややり方、外国語、面子を失うことへの恐れ。例えば、ブロンドのかつらと長いピノキオ鼻の外人客を登場させた全日空のCMを見て欲しい。だが最大の恐怖は、オルタナティブが、それがたとえ異国のものであっても、今までのやり方よりも優れているかもしれないという恐怖なのである。
確かに、日本のワインのオピニオンリーダーのほとんどは、醸造方法、スタイル、飲み方等の世界的トレンドに無知だ。したがって、増えつつある家飲みの顧客層にとって有益であるはずの情報をシェアすることができない。さらに、これらのオピニオンリーダーは、”クラシック”な地域以外のワインを切り捨てるためにあるような教義の上で栄華を極めている。この教義が、この国のワインヒエラルキー、特に日本ソムリエ協会の根幹だ。これもまたエリート主義に基づいたもので、ソムリエの無知と発信力の低下を助長している。ソムリエハンドブックでボルドーとブルゴーニュに割かれたページを見れば、他の地方が、良くて形ばかりの一瞥を与えられているに過ぎないことが明らかである。
とはいうものの、日本にも大好きなところが沢山ある。切ってもきれないつながり――色々な意味でスピリチュアルで筆舌には尽くしがたい――がこの国との間にはあり、越前大野での若き日々は、今日のこの日まで人生で最も素晴らしい体験であり続けている。日本には時々戻ってくるつもりだ。根っからの民族中心主義で、必要な時にリスクの取れない国とはいえ、多くのレベルで洗練された場所だからだ。安全で整った住環境は申し分なく、この点ではグラスをかかげたい!
それでも、いつかワインが進化した社会で飲まれる日が来ることを期待している。バブルのキメラとロスト・ジェネレーション、震災の傷跡、終わりなき不況とそれに伴う苦労。これら全てが、既存の因習という名の救命ボートにしがみつかなくてもいい社会となる日。因習は今のところ体を保っているものの、次第に意味を失いつつあるのだ。より良い生活を得る機会を育んでくれるような社会を待ち望んでいる。つまり、優れた都市計画、生活空間、余暇を楽しむこと、時間よりも才能に報いるような公正な勤務時間と給料体系。否認主義でない歴史理解。よりクリーンな環境政策。そして、これら進歩の象徴としての、直感的で快楽に基づいたワインへのアプローチ。ステータスや体面の証としてぶら下げたり、鼻と口の代わりに目でテイスティングしながら詳細に分析するような扱いは、もうやめよう。
とどのつまり、ワインは様々な文化や気候から生まれ出る、美しく素晴らしいものなのだ。ただし、その意味を本当に味わうようになるまで、ワインは飲まれ楽しまれるために存在するという簡単な格言も、理解するのは難しい。
(text by Ned Goodwin MW / translated by Ai Nakashima)
原文を読みたい方はこちらをどうぞ。
Steve Heimoffがネッドの記事を取り上げ、日本とアメリカのワイン文化について記している記事があります。
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