ワイン&造り手の話

すでに半年以上も前の出来事ですが、今回はちょっと珍しい体験についてお話ししたいと思います。

昨年6月、シャンパーニュのヴーヴ・クリコから招待を受け、バルト海に浮かぶ小さな島、シルヴェスカー島を訪ねました。この島はフィンランド領オーランド諸島を構成する島のひとつです。

表向きはヴーヴ・クリコの長期熟成ヴィンテージ・シャンパーニュ「カーヴ・プリヴェ」のお披露目でしたが、それならばこんな孤島までわざわざ人を呼び出す理由がわかりません。このイベントにはスウェーデンのシャンパーニュ専門家、リカルド・ユリンや、フィガロのワインコラムリスト、ベルナール・ブッチなど20名ほどのジャーナリストが呼ばれておりました。日本からの参加は私のほか、「シャンパンのおしえ」でお馴染みの葉山考太郎さんです。

じつはバルト海とヴーヴ・クリコと聞いて、ピンと来るものがありました。それは5年前の出来事。バルト海に沈む難破船から145本のシャンパーニュが引き揚げられたのです。

さて、これらはいったいどこのメゾンのシャンパーニュでいつ頃のものでしょう? 試しに何本か開けてみたところ、あるボトルのコルクに彗星の刻印がありました。また彗星を囲むように「V.CLICQUOT.P WERLE」の文字も見つかりました。ヴーヴ・クリコです。そしてこのボトルには、今日使われているミュズレが見当たらないことから、1840年頃のシャンパーニュと推定されたのです。

最終的に引き揚げられたすべてのボトルを抜栓。飲用に適すか否かの判断が下され、79本が飲用可と判断。これらのボトルには再びコルクが打たれ、オーランド自治政府が管理することになりました。作業の際にはすべてのコルクがチェックされ、46本がクリコ、4本がエドシック、95本が後にジャクソンに吸収されて現存しないジュグラーのものと判明しています。

そのような”いわくつき”の場所です。単に新商品のお披露目ですむはずがありません。問題のボトルはカーヴ・プリヴェの試飲がひと通り終わったところで登場しました。そうです、170年も海底に眠っていたシャンパーニュの試飲です。

グラスに注がれたその液体の色は、どことなくくぐもって見えました。ピュピートルを使ったルミュアージュ(動瓶)は、まさにマダム・クリコにより1816年に発明されていますが、まだ今日のように澄んだ状態にするのは難しかったのでしょうか。

次に香りを嗅ぎます。あちらこちらで「アニマル!」という言葉が飛び交っています。はい、その液体の香り、いや臭いはとても動物的で、ソムリエ用語のひとつ「濡れた犬の毛」そのものでした。隣の葉山さんは「ラクダ小屋の臭い」と呟いています。私が「葉山さん、ラクダ小屋に入ったことあるんですか?」とお聞きしたら、「いや、ありませんけどね」と笑ってらっしゃいましたが……。

ヴーヴ・クリコの醸造責任者、ドミニク・ドゥマルヴィルは皆の質問に、「還元臭、あるいはブレタノミセス(腐敗酵母)でしょう」と答えていました。19世紀半ばのシャンパーニュ醸造は今日と違い、ほとんどアンセストラル法に近かったそうです。なにしろパストゥールが発酵のメカニズムを解明し、酵母という微生物の介在を明らかにする以前のものですから無理もありません。

シャンパーニュはオーランド自治政府の財産。今回、政府から特別に1本寄贈された。

シャンパーニュはオーランド自治政府の財産。今回、政府から特別に1本寄贈された。

ヴーヴ・クリコの醸造責任者、ドミニク・ドゥマルヴィル。

ヴーヴ・クリコの醸造責任者、ドミニク・ドゥマルヴィル。

口に含むと甘い……。ドザージュは150グラムもあるそうです。船の沈んだ位置から考えて、ロシアの宮廷向けに送られたシャンパーニュの可能性が高く、当時のロシア貴族の嗜好を鑑みればこのドザージュには納得です。ただ、おそらくマロラクティック発酵も起きていないので酸もまた高く、その数値から想像されるほどの甘味は感じられませんでした。

したがって、「想像を絶する美味しさ」は味わえませんでしたが、それよりむしろ「170年もの時を飲む」経験が出来たことのほうが貴重でした。この船は突然の嵐に巻き込まれて沈んだのか、はたまたこの海域を荒らし回る海賊に襲われたのか。本来ならばロマノフ朝のツァーリーが口にしたかもしれないそのシャンパーニュに口をつけられたのですから、とても満足です。

今回はもうひとつ、大事なイベントが用意されていました。難破船が発見された同じ海域に、現代のヴーヴ・クリコのシャンパーニュを沈めるのです。イエローラベルとドゥミ・セック、04年のロゼの計300本にイエローラベルのマグナムが50本。ステンレス製のケージに納められ、シルヴェスカー島の沖に沈められました。これらのシャンパーニュは定期的に引き揚げて、熟成の進行を検証することになっています。

検証の場としてここが選ばれたのは、沈没船の発見場所という歴史的な意味合いに加えて、海底熟成の条件が整っていたこともあります。まず海水の塩分濃度が低く、コルクへのダメージが少ないこと。水温が1年を通して摂氏4度前後に保たれること。水深が平均55メートルと浅く、今回沈めた40メートルの場所で水圧は5気圧となり、ボトル内部のガス圧とほぼ拮抗すること。そしてさらに、シルヴェスカー島が個人所有の島のため、盗難に遭うリスクが少ないことです。

この検証にあたって、われわれジャーナリストは沈めたのと同じシャンパーニュを試飲し、そのコメントを記録しました。これがゼロ地点となり、今後、2、3年ごとに引き揚げられたシャンパーニュを試飲して、過去のコメントと比較していくことになります。また同じ種類のシャンパーニュがランスの地下セラーにも保管されていて、今後は海底熟成のものとセラー熟成のものとの比較も行われます。

メゾンではこの検証実験を短くて30年、できれば50年は続けたいと言っています。シャンパーニュの醸造技術は170年前とは比べ物にならないほど進化し、今日、私たちが味わうイエローラベルやヴィンテージの品質は飛躍的に向上しました。あまり公にはされていませんが、ドゥマルヴィルが加入してリザーヴワインやヴィンテージ用のワインの一部に大樽熟成が施されるようになり、フレーバーの深みが以前よりも格段に増しています。30年後、あるいは50年後、海底のシャンパーニュはどのような熟成を遂げているのでしょうか?

今回、シャンパーニュの潜水式に立ち合ったジャーナリストたちは、検証のたびに集まることになっています。ひとつの懸念は、集められたジャーナリストの中では私が最年少の部類に属し、それでも今年50歳を迎えること。30年後で80歳、50年後なら100歳です。いったい何人の仲間が、この検証を最後まで見届けられるのでしょうね?

(text & photos by Tadayuki Yanagi)

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