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Why_Japan_has_lost_its_MW___Tasting_Notes___Wine_Reviews_from_Jancis_Robinson

<After That Article by Ned Goodwin MW>

( the original text is following this translation )

 

「先だっての記事に対する所感」

以前私が書いた記事に対する反響は嬉しいのと同時に、少し圧倒されるくらいのものだった……。こういったウェブサイトの他に、ジャンシス・ロビンソンのパープル・ページにも掲載されたりして、非常に感謝している。

(編注:パープル・ページでの題名は、ジャンシス・ロビンソン・コムが独自につけた題名で、最初に掲載された「プレステージ」誌でネッド自身がつけたタイトルは「日本とワイン〜ガラパゴス効果〜」だった。)

数人の日本人ブロガーも自発的に翻訳してくれた。あるサイトなど、2日間で34.000ヒットを記録。意見に賛成する・しないに関わらず、テーマが刺激的だったという証だろう。

 

欧米で影響力のあるワインライター、スティーヴ・ハイモフも自身のブログで取り上げ、日本のロストジェネレーションとアメリカの新世紀世代の若者の、興味深い対比を描くプラットフォームとしてくれた。

 

結局、アメリカと同様、日本のロスジェネは金が潤沢にある社会に育ったのである。現在も大半の人間にとってはそうである。しかし日本の賃金は下降の一途をたどり、新しい発想を実践する舞台を探す大卒学生の失業率は高く、他の先進国同様に格差は広がり続ける。

 

日本では、「変化」を敬遠しがちなようだ。ワイン業界でもその他の分野でも、変化を起こすのに必要な責任を背負うということが差し迫った課題だ。慢性的不況、福島の抱えるリスク、右に傾いた政府を考えると、個人のモラルがこれまでになく重要になってきている。

 

ハイモフは、9.11、テロとの戦い、リーマンショックと、不安定な社会構造に同じく影響を受けて育ったはずのアメリカの新世紀世代は、変化という挑戦に対して異なった反応をしてきていると言う。その反応には、アメリカのワインに対する活き活きとしたアプローチ、つまり、めまぐるしく、ほとばしるようなエネルギーにあふれた関わり方も含まれている。

 

アメリカ人の多くは、私が生活の拠点としているオーストラリアのように、ワインの多様性は探求すべきもの、楽しさに満ちた道程として歓迎してきた。彼らは飲み、語り、何よりもバラエティ、文化、スタイル、哲学にとらわれることなくワインを売る。「売る」とは汚れたフレーズではなく、ワインの喜びを分かち合い、伝え合うために必須の営みなのである。

 

国に関わらず、良い売り手は客に提案し、客を魅了し、行動を促す。飲食店の席に客を座らせ、新しいものを試してみようと思わせる。レストラン、バー、ワインショップ、あるいは自宅であっても、ワインを実際にグラスに注ぐことで売り上げと消費は増える。

 

アメリカでの経験から言うと、アメリカ人にはこれが非常に上手い人間が多く、日本のソムリエのように、売ることよりも自分自身の方が重要だと思ったりはしない。

 

結局、日本のワイン消費量は1998年以来、一人当たりたったの約2ℓで停滞しているのだ(編注:2013年 2.78ℓ)。むろん、日本にはサケ、日本酒(日本ではこう呼ぶ)という素晴らしい文化的財産があるのはわかっている。日本には伝統的にワイン・カルチャーがないので、ワインと料理を合わせる時には決まってワインを特別視した、何か仕切りをしたような食事になってしまうのだ。だが、ワインが目新しい文化では、大体似たり寄ったり。なにより、私は文化の押し付けには非常に敏感である。

 

四川はもとより、広東などの中国の地方料理、タイ料理などは、ワインにとっては日本料理よりずっと難しいだろう。いずれにせよ、地域性のあるアルコール類、ビール、ワイン、その他諸々のように、サケを楽しむことはできないだろうか?

 

例えば、完璧ではないにせよ、何でもありの居酒屋メニューに様々なロゼを合わせてみることは、できないだろうか?イタリアの次に一人当たりのソムリエの数が多い日本で、そう思う人がいてもおかしくない。喜びを届け、好奇心をかき立て、グラスを注いで回り、売上を伸ばしているはずのソムリエなり門番なりは、一体どこにいるのだろう?

 

ここが困ったところなのである。優れたソムリエはワインの知識が豊富。それを身につけようとする努力は、アメリカだろうが、日本だろうが、どこであっても賞賛すべきものである。しかし、本質的には、ソムリエとはセールスパーソンなのだ。もしもこういう言い方が気に入らないのなら、ワインと携わる他の手段を見つけるか、あるいは、全く別の職業を見つけるべきだろう。

 

日本ほどワイン市場が瀕死状態の国で、こんなことが問題の核心なのだろうか。私は、ひょっとしたらそうではないかと思っている/ 私はそうではないかとにらんでいる。これが問題にできるだろうか。できると思う。日本ソムリエ協会によって言いふらされている「クラシック」という単語に従順な平均的な日本のソムリエは、成長しつつある自宅での消費者層、本当にパフォーマンスの良いワインーつまりニューワールド、南ローヌ、スペインなどーに興味のある顧客層とはほぼ無関係なのである。影響力は無い。

 

あらゆるワインにおける売上の低さは、いわゆる「定番」の地域に対する嗜好が強いせいだとも言われるが、その言い訳は無味乾燥だ。日本の飲食店では、クオリティはほとんどの場合、価格の犠牲になっている。前も述べたように、それには安価なボルドー(都合の良いスケープゴートかもしれないが、ボルドーの実のともなったワインとは別物である)、チリ、その他「名前」で売っているだけの低品質のワイン。カテゴリーとしての魅力に欠け、売りは値段というワインだが、「伝統的」というカードが使える時にはこぞって使われている。知識の不足、そして敢えて言わせてもらうなら、売り手が提案し、売ることが出来ないからである。

 

国際的にトップのワイン・セールスパーソン、例えばNYのテロワールのポール・グレイコ、LAのモッツァのデイヴィッド・ロソフ、パースのプリント・ホールのダニエル・ウェグナーなど、ソムリエを挙げだしたら切りがないが、彼らはあふれる情熱と共に、ワインの影と白光の後ろを巧みに動き回っている。かわいそうな消費者に、威圧的で退屈な解読の難しいディテールを聞かせるなど、ワインを細かく解剖分析してワインよりもソムリエが大きくのさばるなどということはしない。メダルやタスト・ヴァンを襟から下げている皆さんー日本ではよく見かけるがー、覚えておいて欲しい。

 

優秀な売り手は、伝統的なワインとその愛好家を、その不朽の存在に敬意を表しながら参考にする。それと同時に、シュワシュワ発泡したオレンジ色の、欠陥がありながらも魅力的な新しい時代潮流を表すワインものぞき見ている。手の入っていない土地や標高の高い場所、遥か遠い地から、地元のテロワールまで。例えば低アルコールのオーストラリアのセミヨン、だろうか。

 

最高の売り手は、限界を押し広げ、味覚を醸成してくれる。ジュラのプルサールをもう一杯飲んでおけば間違いないだろう、と思ったすぐそばで、私たちの想像力と味覚を刺激するような新しいワインを見つけ出してくれる。これが、「薦める」という、ごく簡単なことのなせる業なのだ!

 

ワインとは、そうでなければ決してたどり着けないような、美しい場所に私たちを連れ去ってくれる心の目に映ったポストカードのようなものである。何より重要なのが、最高のワインの売り手は情熱、知識、ワインの喜びを分かち合えるということである。そして、多様性を押し進める。

 

もちろん、販売という営みには数々の文化的制限がある。例えば、個人的なエピソードを熱心に語ったり、大枠を決めるために予算を尋ねたりすることは、欧米では文化的に許容されている。

 

しかし、日本では他のアジアと同様、メンツを保つという複雑な装置が働いていて、金額について話すことはタブーである。このような装置は往々にして(いつもとは限らないにせよ)、新しいスタイルのワインや、よりクオリティの高いワイン、よく知られたものの代替物を提案することが、顧客・売り手のメンツを失わせかねないのである。

 

済んだ話題を蒸し返す可能性もあったが、日本のワインに関するウェブサイトの編集者に、例の記事の執筆時の考えや不安を書いてもらえないかと頼まれた。もちろん、執筆時には不安もあった。だが、人間としての形成期を何年もの間過ごし、一生の友人や精神的なつながりを作り上げた日本のことを大切に思っているのは変わらないが、ワインをとりまく環境については、言わなければいけないと思ったことを書いたのだ。

 

それに対して、アメリカ人のライター、アルダー・ヤロー氏からも返答返事があった。アルダー氏は、偉大な造り手のシャンパン、”ナチュラル”ワイン、慣習に縛られないワインを提供する多くの素晴らしいワインバー、小売店、レストランを指して、私の主張に疑問を投げかけた。確かに、ある程度はそうもいえるだろう。だが、だから何だというのか。結局、クロ・ルジェール、”ナチュラル”ワインやその類いをリストするのは簡単なのである。だが、それを売ることはずっと難しい。ワインを提案し、情熱をもって語り、それをもってして「売る」ということが、日本のワイン従事者の不得手とするところなのだ。

 

つまるところ、好奇心をかき立てるような素晴らしいものを歓迎するオタクの棲家はどこにでも存在するのだし、日本などは素晴らしきオタクがわんさかいるのである。だがしかし、ワインオタクたちが作り上げているワインコミュニティは、健全ではない。

 

事実、私はアルダー氏よりさらに踏み込んで、東京はどこに行くべきかさえ知っていれば、ワイン愛好家のパラダイスだと言い切れる。価格もリーズナブルだし、ワインのセレクションもニューヨークとロンドンに次ぐレベル。ただし、アルダー氏が日本のワインシーンの成熟の証拠としてあげたような場所は、知る人ぞ知る存在で、大部分の店や飲食店とは対極をなすものだ。そして、公認のソムリエをスタッフに加えながら、彼らはボトルワインや、グラスで800~1200円以上のワインを売れないのである。東京が世界でもっともお金のかかる都市だという事実があるにも関わらず!

 

大半の(すべてではないが)消費者は、そんな環境の中、そこそこのクオリティの低価格帯のワインに慣れっこになってしまった。これも、トレンドや流行の味、売れ行きを牽引していく責任があるはずのバイヤーやソムリエなどに、繰り返すようだが、景気の後退する市場で本当に価値のあるものを提案し、興味を持たせ、提供する能力が欠けているからだと思っている。

 

前の記事でも述べたが、多くの売り手は簡単な方に流れている。つまり、非常に低価格な、低リスクで知名度のある地方ブランドを売るのである。それらは、ーアルダー氏には悪いがー、樽底のボルドー、工業的なチリ、他の市場では買ってもくれないような低品質のワインである。

 

良いワインのある酒店や飲食店1に対し、価値のないワインしかおいていない、それでいて影響力を持った商売は10はある。それでも、必須の存在としてのソムリエは、ねじったホイル(ソムリエがワインキャップで作ってみせる小細工)とタストヴァンを携えてそこにいるのだろう。輝くそれらは、理屈抜きの感覚やワインへの愛よりむしろ、大規模なワインショーや見せかけのきらびやかさに終始する未来を象徴しているようだ。

 

従って、一言でいえば、ワインを愛すと言うことは、説明しにくいもの、喜びをもたらすものへの隷属に夢中になることである。ワインは言葉で説明できるべきものであると同時に、神秘的であるべきものでもある。具体的にn次限まで理解できるふりをするのは、真の理解ではない。しかし何より、肩書き、バッジ、装いとして身につけるものでもないと理解することが重要だ。ワインは好奇心にあふれ喉が渇いた、意欲のある者のもとにもたらされなければならない。つまらない先入観など無しで、あらゆるカテゴリーに属するワインが薦められ、注がれ、売られるべきなのである……。願わくば、信念を持って。

(text by Ned Goodwin MW / translated by Ai Nakashima)

 

 

 

I was flattered and a little overwhelmed by the response to my last piece……Aside from these pages, the article was also published on Jancis Robinson’s Purple Pages, for which I was most grateful.

( the original title of the first piece, as in Prestige magazine. Japan and Wine: the Galapagos Effect.)

 

The article was translated by a few Japanese bloggers of their own volition. One site received 34,000 hits in two-days. Presumably, the topic proved stimulating, whether readers agreed with the views expressed or not.

 

Another influential western wine writer, Steve Heimoff, also picked up on the piece and used it as a platform to draw an interesting parallel between Japan’s Lost Generation and America’s young Millennials.

 

After all, as in the US, Japan’s Lost Generation grew up in a society where money was plentiful as it still is for most. Yet in Japan wages spiral downwards, unemployment is high for university graduates seeking opportunities to implement new ideas and inequality, as in so many developed lands, grows.

 

Change seems distant in Japan. Seizing the responsibility necessary to implement change, be it with wine or otherwise, resonates with a resolute urgency as the drudgery of perpetual recession, the risks of Fukushima and a right-leaning government demand acknowledgment of one’s moral code more than ever.

 

Heimoff notes that America’s Millennials, similarly affected by seismic quakes in the social fabric due to September 11, The War Against Terror and the Lehman Crisis, have reacted rather differently to the challenges of change and this incorporates an energetic approach to wine that is giddy, effusive and wonderful.

 

Many of the new American brigade, as in Australia where I largely reside, have embraced wine’s variety as intrinsic to exploration; a joyful path. They imbibe, talk and most importantly, sell wines across varieties, cultures, styles and varying philosophies. After all, to sell is not a dirty phrase, but imperative to sharing and communicating the joy of wine.

 

Good salespeople in any land suggest, entice and encourage. Getting bums on seats in on-trade venues while willing customers to try something new, be it in restaurants, bars, wine stores and/or in the home, increases sales and consumption by getting wine into glasses.

 

My experience in the US indicates that a great many Americans do this particularly well and do not see themselves above selling as, I would suggest, do a great number of Japanese sommeliers.

 

After all, consumption levels of wine in Japan have stagnated at around a mere two-litres per capita since 1998. Yes, I know that Japan boasts wonderful cultural assets in its sake, or Nihonshuu, as it is locally known. I also acknowledge that Japan lacks a traditional wine culture and offers compartmentalised dining that demands attention when it comes to wine pairing.  Yet most cultures new to wine are not so different. I am, most of all, very wary of imposing one’s culture on another.

 

Regional Chinese such as Cantonese, let alone Szechuan; or Thai cuisine, for example, can be more challenging to wine than Japanese. In any event, is it not possible to enjoy sake as with other regionally specific alcohols, alongside beer, wine and other options?

 

Is it not possible, for example, to pair a slew of rosés that work well if not necessarily perfect, with irreverent Izakaya fare? With more sommeliers in Japan per capita than anywhere outside of Italy, one would think so. Where are those sommeliers or other gatekeepers bringing joy, driving curiosity, filling glasses…moving sales?

 

And here lies the rub. A good sommelier may know a great deal about wine and his or her efforts to acquire  that knowledge are admirable be it in the US, Japan, or elsewhere. Yet, in essence, he or she is a salesperson. If one finds the notion irksome, it is time to explore alternate avenues of working with wine or, perhaps, to find another career path altogether.

 

Could this be an issue in a wine market as moribund as Japan? I suspect so. The average sommelier in Japan, hewn to a message bandied about as ‘classic’ by the Japan Sommelier Association but, in fact, largely irrelevant for the growing in-home consumer base curious about real value-be it found in the New World, southern Rhône, Spain or elsewhere…anywhere-fails to make an impact.

 

Poor sales across wine’s many categories, often excused by a perceived affinity for so-called ‘classic’ regions, ring dry. Quality is so often forsaken in the Japanese on-premise, for low-priced wines. As mentioned before, these include inexpensive Bordeaux (a convenient scapegoat perhaps, but by no means a slight to the quality wines that exist from the region), Chile or other low quality ‘name’ wines from elsewhere. These have little binding affiliation as a category aside from price, yet the ‘heritage’ card is played when at all possible due to

a lack of knowledge and, dare I say it, an inability to suggest…to sell.

 

Let us remember that the very best international wine salespeople, be they sommeliers such as Paul Greico at New York’s Terroir, David Rosoff at Los Angeles’ Mozza and Daniel Wegener at Perth’s Print Hall, as with so many others, exude enthusiasm, yet deftly move in the shadow of wine and its incandescent glow, rather than dissecting it in order that they loom over it with an indecipherable grasp of minutiae that intimidates and bores the poor consumer that has to listen. Those with medals and taste-vins dangling from lapels-so often sighted in Japan-take note.

 

The better wine salespeople reference the classics and stalwarts, respecting their enduring presence; while also peeking into the new zeitgeist of the orange, fizzy and charmingly faulty; the pristine and altitudinal, from faraway lands and local terroirs alike. Low alcohol Australian Semillon, perhaps?

 

The best wine salespeople push the envelope, shape tastes and just when you thought it was safe to drink another glass of Poulsard from the Jura, they discover something new to whet our imagination and palate with…something as simple as the power of suggestion!

 

After all, wine is a postcard in the mind’s eye that whisks us to beautiful places otherwise, perhaps, unreachable. Most importantly, the best wine salespeople share their enthusiasm, knowledge and joy. They promote diversity.

 

Admittedly, selling is limited by numerous cultural strictures. For example, the use of personal anecdotes to enthuse, while enquiring about budget to frame a sale, are culturally acceptable in the US as they are in most Western cultures.

 

In Japan, as with other Asian cultures however, complex face-saving devices mean that talk about money is a faux pas. These same devices frequently (but not always) mean that suggesting new styles of wine, upselling to superior quality and suggesting alternatives to the familiar, may result in loss of face for the customer and/or the salesperson.

 

At risk of flogging a dead horse, I was asked by the editor of a Japanese wine site to write about my thoughts when penning the last piece and the anxiety I felt while writing it. I felt anxiety, of course. Yet while I remain fond of Japan after spending a great number of my formative years there, forming lifelong friendships and spiritual connections, I wrote what I felt needed to be said about the wine scene there.

 

In response, too, came a piece from the American writer Alder Yarrow. Alder challenged the veracity of my claims by pointing out the number of wonderful wine bars, independent retailers and restaurants that offer great grower Champagnes, ‘natural’ wines and other iconoclastic offerings. He is right to some extent, but so what? After all, it is easy to list Clos Rougeard, ‘natural’ wine and others of its ilk. It is far more difficult to sell however, and the ability to suggest, enthuse and thus to sell, is where so many Japanese wine workers fall short.

 

After all, there will always be those of the geek niche to lap the wonderful and curious up, for Japan is, if anything, full of wonderful geeks. However, geeks communicating with other geeks does not a healthy wine community make.

 

In fact, I would go a step further than Alder and state that Tokyo is a wine drinker’s paradise for those who know where to go. Prices are reasonable and the wine selection is second only to New York and London, perhaps. However, the sort of places that Alder cites as evidence of the blossoming of Japan’s wine scene are highly esoteric and in stark contrast to the majority of stores and on-trade outlets, many with accredited sommeliers on their staff, who fail to sell bottles or wine by-the-glass in excess of JPY 800-1200. This is all despite Tokyo being one of the most expensive cities on earth!

 

Subsequently, a majority (but not all) of consumers have become acclimatised to little but low priced wines of middling quality in such an environment due to, I believe, a lack of courage and the inability of buyers, sommeliers and others responsible for driving trends, tastes and sales to-AGAIN-suggest, enthuse and to offer real value in a recessionary market.

 

Instead, as I noted in my last piece, many opt for the easy way out, which is to say risk-averse, well known regional brands at low and lower price points. These include-sorry Alder-bottom of the barrel Bordeaux, industrial Chile and wines that have been dumped from other markets where they are unsaleable.

 

For every good wine offering in the on and/or off-trades, I can venture to ten fold more influential businesses with little but dross on hand. Still, the prerequisite sommelier will likely be there with a twirled foil and tastevin glinting as a metaphor for a future that is largely show and sheen, rather than indicative of any visceral feel or love for wine.

 

Thus, in a nutshell, loving wine is to revel in servitude to something that is often inexplicable; something that brings joy; something that should be mystified as much as demystified for to pretend to understand it to a quantifiable nth degree is not to understand at all; but most of all, to comprehend that no matter the titles, badges or ornaments that dangle from our garb; wine must be brought to the curious, thirsty and eager. With this, wine must be  suggested, poured and sold across categories sans dull prejudices…

preferably with conviction.

 

Ned Goodwin MW

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